【04-05中世後期の演劇】ソティ(阿呆劇)の社会風刺
2012-08-19


ファルスでは暴力が支配するドタバタの笑いが優位にあり、その登場人物は現実社会と結びついた具体的な身体を持っている。これに対して、ソティ(阿呆劇)の登場人物は、もっとあいまいで抽象的な存在である。

阿呆sot(ソ)は伝統のなかで形成された類型的役柄である。ソティの阿呆は、狂人と道化の二つの意味を持つfou(フ)とつながりを持つ。狂人および道化は一般社会からは追放された、時に煩わしく、時に滑稽な存在であるが、神の刻印を授けられた聖なる神秘的存在であるとも見なされていた。「狂人、道化」を意味するfouは、ソティのなかで阿呆sot(ソ)という演劇的類型となった(ソティの阿呆sotは作品によってはfouと呼ばれることもある)。演劇的道化である阿呆は、それゆえあらゆる社会的所属から切り離されており、あらゆるタブーから解放されている。

ソティには複数の阿呆が登場することがあるが、個々の阿呆には個別的性格は付与されていない。劇中で阿呆は固有名を持っていない。第1の阿呆、第2の阿呆と番号で呼ばれたり、あるいは「穴あき頭」、「抜け目のない顔」、「消息を知らせる者」と呼ばれたりする。阿呆は言語的存在である。阿呆の演劇的実体は自分の話す台詞によって、そしてその台詞に割り当てられた批判的な機能によってのみ、その存在が保証される。阿呆は、ちまたで人が口を敢えて閉ざしている事柄、小声でささやかれている事柄を大声で叫ぶ。尊敬しなくてはならない人々を愚弄し、表立った批判が躊躇されるような大物を告発する。しかし阿呆が存在を許されるのは舞台の上でのみなのだ。阿呆のことばが意味を持ち得るのは舞台上だけ、すなわち空想上の場だけなのである。ことばによって現実の世界を改革しようなどという大それた目論見を阿呆たちは持っていない。

ソティには大きく二つの型がある。ジャン=クロド・オバイは、この二つの型をそれぞれ〈裁判形式のソティ sottie-jugement〉と〈筋立てのあるソティ sottie-action〉と呼んでいる*。いずれも擬人化によって演劇的身体を与えられたアレゴリックな人物が登場する。〈裁判形式のソティ〉の場合、〈阿呆の母〉もしくは〈阿呆たちの王〉と呼ばれるリーダーの指示に従って、阿呆たちの集団は自分たちの法廷に〈世界〉を呼び出し、次第に悪化していく〈世界〉を糾弾し、尋問を行う。〈世界〉は、作品によっては〈人々〉、〈数人の人〉、〈各々〉と呼ばれることもある。裁判での尋問を通して、この世の退廃の責任がどこにあるのかが追及される。現実の政治や社会の問題があからさまに風刺と批判の対象になることもあるが、最終的には責任の所在は用心深くぼかされ、〈時間〉と〈狂気〉という擬人化された抽象概念がこの世の災いの原因とされる。〈裁判形式のソティ〉では、阿呆の集団はこのように現実世界の外側に身を置き、外側から社会の不幸を批評し、裁くのである。

一方、〈筋立てのあるソティ〉では、阿呆はそれぞれ何らかの社会的集団を具現している。劇の題材となったあらゆる社会集団は阿呆であると風刺されていることになる。アンドレ ・ド・ラ・ヴィーニュ Andre de La Vigne(1457頃-1527頃)の『8人の登場人物によるソティ』はこのタイプのソティの典型的な作品だ。
〈世界〉を眠らせた後、〈濫用〉は自分が育てた樹木から落ちてきた6個の果実、〈放埓な阿呆〉(教会を表象する)、〈自惚れた阿呆〉(貴族)、〈腐敗した阿呆〉(法律家)、〈嘘つきの阿呆〉(商人)、〈無知の阿呆〉(民衆)、〈愚かな阿呆女〉(女性)とともに、今ある世界を壊し、新しい世界を作り出すことを決意する。新しい世界は、〈混乱〉を土台とし、6人の阿呆を柱にして、舞台上に組み上げられる。しかし最後に〈愚かな阿呆女〉を巡る争いで、新しい世界を表す建造物は崩壊し、古い世界の秩序が回復する。この作品の主題は世界を作り変えることであるが、今の世界を破壊した後で阿呆たちが作りあげたのは、現状の世界よりもさらに劣悪な世界なのだ。


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[フランス中世演劇史]

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