2012-08-28
ソティは本質的に、この世の現状を批判し、その担い手と見なされる人々への異議申し立てを行う劇ジャンルである。このためソティと権力層との関係はきわめてデリケートなものとなる。既に指摘したように、ソティで阿呆(ソ)たちの演じ手の中心は、何よりもまず〈バゾシュ〉と呼ばれる司法職見習いの学生たちであり、彼らは中流ブルジョワ階級に属していた。この階級に属する若者たちは、自分たちが政治において何らかの役割を担うことを熱望していた。そして自ら進んで君主の相談役でありたいと考えていたようなのである。国王権力は、ソティの世相批判の対象外だった。世の腐敗の原因は、国王ではなく、常に国王のとりまきの大臣たちや評定官のせいとされた。
しかしながらソティの世相批判のせいで、作者や役者が権力から弾圧を被ることも時にはあった。〈大押韻派*〉の詩人としても知られているアンリ・ボド(Henri Baude, 1415頃-1590以降)は、1486年に上演した阿呆劇の内容が問題にされ、4人の〈バゾシュ〉とともに数ヶ月間、監獄で過ごすはめになった。ボドは、若き国王、シャルル8世(位1483-98)を泉にたとえ、国王の側近たちを、泉を覆う草、根、瓦礫にたとえることで、宮廷を風刺したのである。フランソワ一世(位1515-47)が統治を開始した翌年、1516年にも、三人の役者が宮廷批判のかどで投獄された。彼らが上演した劇にあった「阿呆の母(mere-sot)が宮廷を牛耳っている。この阿呆母のせいでどれほどあらゆるものが、台無しなり、略奪され、かすめ取られたことだろうか!」というセリフが権力層を刺激したのだ。
フランソワ一世の前の王、ルイ12世(位1498-1515)の時代だったなら、このような批判は黙認されたかもしれない。高名な詩人であるシャルル・ド・オルレアンを父とするルイ12世は、寛大でリベラルな王だった。〈大押韻派〉の宮廷詩人、ジャン・ブシェは、次のようなルイ12世の言葉を記している。「私は人々が自由に芝居を演じて欲しいと思うし、[その芝居を通じて]私の宮廷で行われている不正を若者たちが糾弾することを望んでいる。というのも聴罪司祭たちと賢人たちは不正が行われていてもそれを口にしようとはしないからだ」。
おそらくルイ12世の寛大さの裏側には、演劇を自分に引き込むことで政治的に利用するという狡猾な計算があったはずだ。ソティの風刺は当時、かなり大きな影響力を持っていたのである。グランゴール(1475?-?1538)の『阿呆の王たちの劇』は、ソティが国王権力の政治的プロパガンダとして用いられた一例である。この作品は1512年のカーニヴァルの際にパリのレ・アルで上演された。『阿呆たちの王の劇』では、〈裁判形式のソティ〉の枠組みを使って、カーニヴァルと四旬節の戦いの主題が取り上げられている。この劇ではカーニヴァルの阿呆たち(sots-Carnaval)の王はルイ12世を表し、その敵である四旬節の〈阿呆の母〉は教皇ユリウス2世の化身である。カーニヴァルは最後には四旬節を打ち負かし、〈阿呆の母〉が着ていた法衣を脱がしてしまう。教皇の権威を象徴する法衣をはぎ取られた〈阿呆の母〉は単なる阿呆に過ぎない。このように、ソティによってルイ12世の国外政策やローマ教皇、ユリウス2世(位1503-1513)との闘争は正当化されたのである。しかし実際には、ソティを己の政治的プロパガンダの手段として活用しようとしたルイ12世は例外的な存在である。この後に続くフランソワ一世の治世では、ソティの内容は厳しく監督され、このジャンルは風刺の力強さを失った。そして高等法院が戯曲の事前の検閲なしに上演を行うことを禁じたことによって、ソティは決定的に衰弱してしまう。
セ記事を書く
セコメントをする