【01-12教会の演劇】『アダン劇』、ことばによって獲得された自由
2011-10-09


『アダン劇*(アダム劇)』が教会の典礼劇に属するという見方には異論があるかもしれない。ギュスタヴ・コエンはこの作品を準典礼劇と呼び、その後、多くの研究者は『アダン劇』に対してこの呼称を用いた。しかし準典礼劇というジャンルは、この『アダン劇』一作を説明するだけのためにわざわざ作られたようにも思われる。『アダン劇』はそれまでの典礼劇のように教会建築の内部で上演されたのではなく、教会前の広場で上演されたという仮説がこれまで広く支持されてきた。演劇が教会堂の中から徐々にその外側で上演されるようになり、一世紀ないし二世紀のあいだ、教会堂前の広場で上演される時代が続いたのち、都市の大広場へと上演の場が移っていくという道筋を思い描く研究者たちにとってこの仮説には説得力があった。

しかし最近の研究では、上記の仮説にあるような流れで、演劇上演の場が時代とともに移り変わることはなかったと考えられている。教会前の広場で演劇上演が行われたという記録は実際にはほとんど確認することができない。そして『アダン劇』もまた他の典礼劇と同じように、教会の内部で上演された可能性がきわめて高いという説が現在では有力になっている。『アダン劇』の台詞はフランス語で書かれているが、ト書きはラテン語で記されている。そのト書きには「そして神はeclessiam(教会)に向かう」≪ Tunc vadat Figura ad eclessiam ≫、「神はeclessiam(教会)へ戻る」≪ Figura regredietur ad ecclesiam ≫といった記述がある。このト書きの記述から、大聖堂の正面の扉を背景に、この劇が教会前の広場で上演された様子をコエンなどの研究者は想像したのである。問題となるのは≪ eclessiam ≫という語の解釈である。オランダの研究者、ウィレム・ノーメンWillem Noomenは、この文脈で≪ eclessiam ≫は建造物としての教会を意味せず、教会内部で≪ eclessia ≫と呼ばれていた象徴的な場所を指し示すと考えるほうが妥当であると主張した**。その象徴的な場所とは、内陣の奥にある聖所である。『アダン劇』は、教会の演劇にとって重要な象徴の軸に沿って演じられたとノーメンは考えた。聖所は教会内部の東側に位置し、『アダン劇』では「教会」≪ eclessia ≫と呼ばれている。一方、地獄は西側の扉口に設定されている。人間たちの場所は(とりわけ地上の楽園は)この二つの地点の真ん中にあった。観客はおそらくこの東西の軸の両側から『アダン劇』の上演に立ち会っていた。以上がノーメンの仮説に基づく『アダン劇』の上演の光景である。

ノーメンの解釈では、フランス語で書かれた最古の演劇作品である『アダン劇』は、典礼と依然強い結びつきを保持していたことが強調される。『アダン劇』が上演された場合、おおよそ上演時間の半分がラテン語による典礼聖歌で占められることは、写本の記述、あるいはその記述に基づいて校訂されたテクストからは見落とされやすい事柄である。というのも作品に挿入されている聖歌は、テクストのなかではその冒頭の数語しか記されていないからである。聖歌が作品のなかで重要な役割を果たしていることもまた『アダン劇』がまだ教会の典礼劇の伝統に属していることを示している。

この作品は台詞がすべてフランス語で書かれた最初の演劇作品であるが、その一方で、聖歌隊はラテン語で歌い、舞台指示表記(ト書き)もまたラテン語で書かれている。このラテン語によるト書きは、他の典礼劇テクストと比べると例外的といってもよいほど詳細に記述されている。役者たちの演技に関する指示にはとりわけ細かい指定がされていることは注目に値する。例えば作品の冒頭のト書きには以下のようになっている。


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[フランス中世演劇史]

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