【04-03中世後期の演劇】都市祝祭から生まれた演劇ジャンル
2012-08-02


こうした集団が次々と結成され都市の祝祭を中心となって運営するようになるにつれて、祝祭の意味も変わっていった。民衆の大部分は祭の担い手から、祭での出し物を受動的に楽しむ客になった。15、16世紀になると、カーニヴァルなどの祝祭は、都市の権力層である大ブルジョワが住民全体に向けて提供する巨大なスペクタクルへと徐々に変質していった。主催者として祭に関わるのは住民の一部となり、祝祭の広場では民衆を楽しませるために演劇上演が行われるようになった。演劇では、当然のことながら、演じ手である役者と観客の間にははっきりとした区分が設けられる。笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)といったジャンルの芝居が、こうした都市の祝祭の余興として上演されるようになった。芝居の上演には当時のブルジョワたちの活動の最も活発で革新的な面が現れている。ジャン=クロード・オバイによると、演劇活動はまず15世紀中頃にロワール川、セーヌ川、ソーヌ川の三河川の流域にある都市で活性化した*。これは政商ジャック・クール**によって商業的および産業的に急激に発展した地域と重なる。これに加え、古くからのブルジョワによる都市統治の伝統を持つ北方のいくつかの大都市でも演劇活動が活発に行われるようになった。

この時代の平均的中層ブルジョワ階級が演劇へ示していた強い関心は、〈バゾシュ〉と呼ばれるパリ高等法院の代訴人見習いのコミュニティによる演劇活動にまず見て取ることができるだろう。バゾシュのメンバーの多くはブルジョワ出身で、当時急激に拡大していた司法職見習いの学生だった。彼らは〈阿呆たちの王〉、〈阿呆の母〉、〈ガキ将軍〉といった名前の祝祭のための組織を形成した。またこうした組織はバゾシュたちの間の係争をとりまとめる裁判も行った。この裁判は正式の訴訟ではなく、人々を笑わせることを目的とした見世物としての裁判だった。この司法見習い生による模擬裁判の発展したかたちが、〈脂っこい訴訟〉causes grassesと呼ばれる演劇的な滑稽訴訟であり、カーニヴァルの最後にたびたび上演された。この時代の代表的な喜劇ジャンルである笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)も、法廷でのやりとりを連想させる劇構造を持つ作品が多く、バゾシュとの関わりが深いと考えられている。司法見習い生の組織であるバゾシュは15世紀から16世紀初頭のパリと地方の演劇の発展の中で主要な役割を担うことになる。彼らは、カーニヴァルなどの祝祭で許されていた自由のなかで、演劇という表現手段を通じて、社会批判や自分たちの政治的メッセージを発信したのである。バゾッシュの演劇はしばしば、国王の評議官の腐敗したありさまを辛辣に風刺した。

祝祭の無礼講は住民の不満のガス抜きという機能がある。都市の支配層は、祝祭を準備し、統制すると同時に、その祝祭のなかでの若いエネルギーの横溢を許容した。教会による祝祭への糾弾はこの時代にますます激しさを増し、頻繁に行われるようになった。これは教会の糾弾にもかかわらず、祝祭の勢いが衰えることのなかったことを逆説的に示している。それに教会の祝祭に対する態度も一貫したものではなかった。例えば中世以来、年末年始にかけて下級の聖職者たちによって行われていた愚者祭は多くの教会で黙認されていた。司教に対する教会参事会会員の批判が、愚者祭で上演される演劇のかたちで表明されることもあった。フェーヴルが引用している1445年のトロワの教会の記録には以下のように記されている。


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[フランス中世演劇史]

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