【01-08教会の演劇】典礼劇の時間と空間
2011-09-18


教会の演劇では、時間と空間の飛躍という作劇上の性質、すなわち非連続的な時空を「可視化」するという性質が巧みに用いられている。教会内部の聖域は、いくつかの象徴的な場を典礼劇に提供したと考えられている。しかし教会内の場所に設定されたこうした象徴性は、典礼儀式のなかであまりにも厳密に定められているため、演劇の上演の場として用いるにあたってはその強すぎる象徴性が制約となる場合もあった。教会建築に数ある場の象徴のうち、とりわけ東西の軸の象徴性は重要で根本的なものだった。西構え[玄関広間、鐘塔などから成る多層構成の西正面部]は、日の沈む方向にあることから、死の場所を象徴し、典礼劇のなかではしばしば聖墓の場所となった。大祭壇は日の出の方角、つまりイェルサレムの方角に位置することから、イエス生誕の場面はここで演じられた。このように教会の東側は誕生と天国のイメージと結び付き、西側は死と地獄のイメージと結びついた。

典礼劇が教会建築の内部で上演されていたことは確かだが、教会内のどの場所で典礼劇が上演されていたかについては、研究者のあいだでも一致がみられていない。ベルナール・フェーブルは、ヤングなどの記述に基づき、教会建築の中央部の身廊を中心とした広い空間が典礼劇上演の場となっていた可能性が高いと主張している。しかしハーパーのように、典礼劇の上演は聖職者による聖職者のためのものであり、あくまで典礼儀式の枠組みのなかで上演されたものである以上、その上演の場は内陣に限られていたとする説もある。

演技の場を指すのに、典礼劇のテクストで最もよく使われていた語は≪ platea ≫である。古典ラテン語では≪ platea ≫は、「大通り、広場」を意味するが、ニエルマイヤーの中世ラテン語辞典*では、上記の古典ラテン語における意味のほかに「土手道;用地(屋内もしくは野外のいずれにも用いる);広場、場所、空間」の意味が、ブレーズの中世ラテン語辞典**では「場所、区域;教会内の柱廊(拝廊)」の意味が記されていて、実際のところ、この語が教会のどの場所を指していたのかは特定しがたい。フェーヴルは、≪ platea ≫は時に「舞台」を意味することもあったが、一般的には教会の床面を意味し、とりわけ身廊を指す場合が多かったとしている(フェーヴル前掲書26頁)。ただしこの語は内陣を指すこともあったとも記している。

新約聖書の「使徒言行録」第九章10-18節に基づく典礼劇、『聖パウロの改宗』のト書きは以下のように記されている。

「イェルサレムを表現するのに適切だと思われる場所に、司祭たちの王が座る椅子を一脚用意しておくこと。またサウル[改宗の後に、パウロに改名する]の扮装をした若い男が座る椅子をもう一脚、別に用意しておくこと。この若い男を武装した兵士たちがとりかこんでいる。その反対側、この二脚の椅子から十分離れた場所に、また別の二脚の椅子を用意しておくこと。このもう一方の側の二脚の椅子が置かれている場所をダスカマスとする。ユダという名前の男がそのうちの一脚に座り、もう一脚にはダスカマスのシナゴーグの王が座る。椅子の後には寝台が一台置かれ、そこにはアナニアを演じる人物が寝ている。」(ギュスタヴ・コエン『中世フランス宗教劇の演出の歴史*』より)。

フェーヴルはこの劇が教会の床面で上演されていたと想定する。上記の引用にあるように、上演の現場では、イェルサレムとダマスカスという二つの町は、間隔を空けて置かれた椅子とそこに座る重要人物によって示されている。二つの重要な町は、椅子というシンプルな舞台装置によって象徴的に示されている。しかしこの装置のシンプルさゆえに、遠く離れた二つの町が同一空間のなかで並置されていることが、視覚的に明確に表現される。これをフェーヴルは「非連続的要素の連続」と呼んでいる。典礼劇の上演が始まり、床面に置かれた椅子がそれぞれ町を意味することが伝えられるやいなや、教会は演劇的な空間となり、遠く離れた複数の場所が一つの空間のなかで、共存することが可能になるのである。

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[フランス中世演劇史]

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